The Life Aquatic
2006年9月16日 映画内容紹介
“チーム・ズィスー”のリベンジのための航海は、山あり谷あり。最悪な人生ほど、最高の冒険だ―。
主人公は、(現在は落ち目と噂される)世界的に有名な海洋探検家にして、海洋ドキュメンタリー映画監督のスティーヴ・ズィスー(ビル・マーレイ)。横柄で傲慢、自分勝手で超自己チューなのに、どこか憎めない男。この10年近く自作の映画がヒットしていないものの、黄金時代のプライドを捨てきれないでいる。ある日、そんなズィスーの前に、ズィスーの元恋人の息子で、(彼曰く“たぶん”)ズィスーの息子と言う青年ネッド・プリンプトン(オーウェン・ウィルソン)が現れた。「母は死んだ」と告げるネッドにズィスーは「たぶん私の息子だ」と動揺し、自分の栄光のために過去に失ってきたものを思い出す。ズィスーは、クセ者ぞろいの映画製作集団、“チーム・ズィスー”に彼を誘う。チーム・ズィスーは次の航海の準備に取り掛かる。「幻のジャガーザメ」に殺された仲間の仇を討つために、そして、失われた名誉を取り戻すために―。しかし、その航海には、想像を越えた冒険と、思わぬ悲劇が待ち構えていた…。
「life on Mars」のポルトガル語カバー
http://www.youtube.com/watch?v=E01kpE2AcyU&;;;;;mode=related&search=
オリジナルは、デビッドボウイが70年代のはじめに発表した曲です。『Changes』というアルバムに収録されています。
セウ・ジョルジは、ブラジル出身の役者ですが、歌手としても活動しているそうです。映画の中では、弾き語りで70年代前半のボウイの代表曲をいくつかカバーしています。
彼の演奏が、映画の背景に溶け込みながら、演出を盛り上げていて、きっとこの人がいなければ、映画の印象もかなり変わっていると思います。
セウ・ジョルジは『シティ・オブ・ゴッド』という映画にも出演しています。
追記
ウェス・アンダーソンは、『天才マックスの世界』から『ライフアクアティック』にかけて、父性との関係を軸に「許すこと」を描いていてきたと思う。
彼の映画に見られる、身近なものに対するフェティシズムというか、ポップアート的な観点は、ハリウッドの中でもかなり異質で傑出していると思う。
何回も見たくなるのは、小道具の使い方やコネタが面白いのもあるかもしれない。
よく悪者が一人もいない映画ばかり撮っていると言われるらしいけれど、ハリウッドの大部分の映画みたいに、二項対立的な視点から善悪をわけるほうが、独善的で好きになれない。
美人を救うために、マッチョな男前が「悪者」を殺しまくって、世界を救ったみたいな顔をしてハッピーエンドなんてありえない。完全に時代遅れだと思う。
今は、そういう映画もかなり減ったけれど、未だにある。「Mr.&Mrs. スミス」はわかりやすい例だろう。あの夫婦が、くっついて仲直りする間に、かなりの数の人が撃たれてる。二人の職業が「殺し屋」っていうところが曲者なのだし、もしかしたらブラックユーモアなのかもしれないけれど。
あの二人のために、死んだ「悪者」たちの人生がないがしろだ。
ひとつの死をリアリティーをもって伝えようとしたと考えれば、『ライフアクアティック』終盤のメロドラマのような展開も、仕方ないと思う。批評の提出をするための必然性を含んだものだったんじゃないだろうか。
エステバンの死ともうひとつの死を対置してみて、結局のところ重要なのは、文脈があるかないかなのかもしれない。と思った。
文脈を「映画の中に蓄積された場面や人物の描写」と言い代えてもいい。(んー、うまく定義できない。)
そんでもって、文脈なしに描かれる死は、軽視されていると感じるから、俺はこんな事を書いているんだろう。
ひまなんだね
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