このCDについて
“生活のなかに溶け込む音楽”(=家具の音楽)を提唱し、同時代以降の作曲家たちに多大な影響を与え、多くの信奉者を抱えるエリック・サティ。あまりにも有名かつサティの代名詞でもある『ジムノペディ第1番』から始まるこのアルバムは、サティ音楽の「シンプリシティ(簡潔さ/単純さ)」への熱烈な信奉者で、ウィンダム・ヒル・レーベルの創設者でもあるウィル・アッカーマンによってプロデュースされたベスト選曲集。あまたあるサティ・ピアノ曲集の中でも、ビル・クウィストによる“すべてをそぎ落とした、まっさらな”感覚によるシンプルな演奏は、サティ作品を聴くには絶好のものである。

内容(「CDジャーナル」データベースより)
多くのミュージシャンたちに影響を与えた作曲家、エリック・サティの曲を、主に室内楽で活躍するクウィストが演奏する。飾り気のないタッチが、それぞれの曲の良さを最大限に引き出している。


「ジムノペディ第一番」は、名前を知らなくても、曲を知らない人がいないくらい有名な曲だと思う。というか、わたしが、そうだった。

 この前、図書館でクラッシック入門盤を借りてきた。そのオムニバスCDの中で一番好きなのが、その曲だった。告白してしまうなら、今も、曲名を覚えていないし。さっきアマゾンのページを見て、思い出したくらいだし。でも、ここ1週間、聴かない日はないくらい聴いてる。

この曲を聴いて外を歩くと、景色が変わって見える。なぜだかわからないけれど、それは、大岡昇平の『野火』を読んだ時に感じたものと似ていると思う。(この前、途中まで読んだのだけど、わりと面白かった。)

正確な引用ではないけれど、『野火』の前半にこんな表現があった。

《無限に続くような生の予感、それが私を無気力にさせた。おそらく私を覆っていたのは幸福感とは正反対に位置するものだったのだろう》(文脈なしで引用してすみませぬ)

それを見たときに、世界が一変するような感覚が残って、なぜか喜びで胸がいっぱいになった。

明日、生きているかどうかなんてわからないのに、私は明日自分が生きていると信じている。盲目的な確信でもって。
本当のところ、そこらへんは、考えなくてもいいところだろう。けれど、なまじ暇なもんだから考えてしまう。

そして、すこし考えれば、それがなんの確証も得られない頼りないものだとわかる。それによって、それまで続くはずだった、生の予感がすこし先で途切れる。かといって、途切れた先を侵食するのは、死の予感ではない。
そこにあるのは、生の予感の断絶であって、断絶された空間を埋めるのは、実体の持たない空虚な気分だと思う。
いや、もしかしたら生の予感じゃなければ、死の予感でなければいけないのかもしれないけれど、全然死にたくないから、そう思いたくないんだと思う。やっぱ信じたいものを信じるもんだ。

「ジムノペディ第一番」を聞いている時に感じる幸福感と憂鬱は、無限に続くような生の予感の傍に横たわっている倦怠と似ている。

贅沢な悩みと気だるさを、歪んだ背骨が支えながら、一時間だけ。

追記
くさいねぇ。自分のヘナチョコな部分を覆い隠そうとすると厚着になる。しかも、めちゃくちゃな着こなしで、そこらじゅう継ぎはぎだらけ。
...なんて、相田みつおチックに言ってみる。いや、読んだことないけど。たぶん、彼のほうが数億倍マシだね。鼻につくよ、変にわかった気になってさ。

だってにんげんだもの。

ゆるいぜい。

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