マトリックス 特別版
2006年7月23日 映画Amazon.co.jp
凄腕ハッカーのネオは、正体不明の美女トリニティに導かれ、モーフィアスという男と出会った。モーフィアスはネオが、マトリックスと呼ばれる仮想現実から人類を救いだす「救世主」だと告げた。
圧倒的な視覚効果と、息をもつかせぬハイテンポな展開で、世界の度肝を抜いたカリスマムービーである。監督は『バウンド』で話術の巧みさを認識させた、ウォシャウスキー兄弟。『スピード』のキアヌ・リーヴスは、この作品で再び最高のスターの地位についた。本作は『2001年宇宙の旅』よりも新しく複雑で、21世紀の映画を先取りした傑作だ。
特典は約26分のメイキング、約6分のアクションシーンの撮影秘話など。そして本編とリンクし、「白うさぎ」マークの9か所でメイキングが見られる映像特典もある。(アルジオン北村)
目に映る景色は、すでに現実とは離れているともいえる。肌の色が、見る場所によって変わるように、眼を通して認識する色や形は、本当は私たちの脳が映し出す像であって、それは、光が作り出したものである。
「マトリックス」の主題は、そんな部分とも重なるのではないだろうか。モーフィアスが「君はリアルをどう定義する」とネオに質問している時に、そんなことを思った。視界、音、味、感触、匂い。それを現実だと定義することは容易い。だが、人間はそれぞれに違う器官を持っている。認識されないとしても、そこに微妙な誤差があるだろう。そこに、懐疑が生まれる。一つは、人それぞれの感覚の誤差への懐疑。私とあなたの違い。もう一つは、自分の感覚を通して認識される「現実世界」と、実際の現実世界との間にある誤差への懐疑だと思う。
道のりは違っても、上の二つの懐疑は、デカルトの方法的懐疑の行き着く場所に至るだろう。全ての感覚を疑うなら、現実世界への接点は足場を失う。例えば、『マトリックス・レボリューション』で彼らは平和を手にいれるけれど、それ自体が2重の仮想世界を持っていたとしたら、その革命自体が幻想ってことになる。本当にキリがない。感覚を真実じゃないものとして廃せば、感覚を疑う主体としての自分の存在だけが、疑いようのないものとして感じられる。(「われ思うゆえにわれあり」って、そういう意味?だよね。なんだか自信ないけど。)
その誤差というのは、何か議論しなければいけないほど重要なことではないかもしれない。はっきり言って終わりがない。しかし、感覚を通した現実世界との関係性についての考えるだけでも、とても面白い。
追記
小さい頃に、「これ全部がゲーム(虚構)なんじゃないか」と考えたことのある人はいると思う。頭のおかしい人の、被害妄想みたいだけど。他の人がつくりものなんじゃねーか、みたいな自己中心的なの考え。すくなくとも、自分は持っていました。ニンテンドーのバーチャルが出てきた時だったような気がします。とんでもない話だよな。
ワイヤーアクションやCDを使った。エンターテインメント映画としての面白さとは別に、この映画にはそういった部分の面白さもあるように思う。映画の虚構性を、逆に利用してしまう方法。
ただ、物語の本筋にはやはり疑問を感じる。自由を押し付ける側(モーフィアスたち)を善良なものとして描き、自由を押し付けられた人(サイファー)が醜く、卑屈な人間として描かれている。
「秩序」は、運営する側にとって都合よく働くようにできている。しかし、それを相互に承認しているなら、それでいいように思う。少なくとも、自由意志は守られているだろう。
それを、外部から見た視点だけで考えて「解放」する。サイファーのように、赤いクスリを飲まなければよかったと思う人間が、いることも描いていることは、いいかもしれないけど。
戻りたい人って、結局「妄想でもいいや」みたいな人になってしまう。いや、俺、妄想野郎肯定してるわけじゃなくて、いや、たしかに俺自身は、けっこう妄想野郎かもしれないけど...
その「解放」と「自由」っていう言葉の響きの良さになにやら、うさんくささを感じるわけです。
マトリックスからの解放を、自由の話に置き換えるのは、ちょっと無理があったかもしれないけど。
でも、そのまま突っ走って、話をすすめるなら。そこには偽善があるような気がする。自由の価値を主張する国が起こしたイラク戦争の大義名分の中には、イラク国民を圧力政治から解放することも含まれていたはずだ。
自由の定義を考え直すべきじゃないか。今まであった秩序が悪いわけじゃない時に、その秩序を破壊して、自分たちと同じ体制を、押し付けることだって、自由を奪うことになるんじゃないか。
って日本語で書いても意味ないか。
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